私にとってインプロとは何なのか?②インプロワークショップ初体験

引き続き、「私にとってインプロとは何なのか?」というテーマでブログを書いていきます。

(誰かに呼んでいただくためというよりは、自分の記録のために書いているところがあります。だらだらとすみません)

前回は、インプロといかに出会ったのかということについてふりかえりました。

今回は、実際にインプロのワークショップを初めて受けたときのことについて思い出してみようと思います。

 

前回のブログで、私がインプロのワークショップに初めて参加したのは2009年3月、と書きましたが、

実はそれより前にも参加している可能性が浮上してきました。

ですので実際にいつから始めたのかは曖昧、かつ、どの記憶が1回目のワークショップなのかも曖昧なまま書きます。

(当時使っていたスケジュール帳が出てきたらいいのですが、、大学3年生(2009年)の冬(たぶん1月か2月)というのは確かだと思います。)

 

はじめて行ったインプロワークショップをおこなう団体は、

いま私が所属させていただいている「即興実験学校」です。

当時は、池袋のコミュニティセンターのような公共施設の中の和室でワークショップがおこなわれていて、

トライアル、ベーシック、アドバンス(たぶんこの名称)というクラスに分かれていました。

開始時刻が(大学生真っ最中の私には)朝むちゃくちゃ早くて、横浜の丘の上から原付と電車を使って遠い池袋まで出かけていったのを覚えています。

最初トライアルに参加したのですが、そのワークショップにとても惹かれ、そのまま夜のクラスまでいさせてもらった記憶があります。

 

では、何に惹かれたのか。

 

キーワードとして挙げられるのが、つぎの3つです。

①怒られない

②supportive

③「理論」がある

 

 

当時、脚本演劇をやっていた私は、「エチュード」というかたちで即興をやることがありました。

しかし、「エチュード」は私にとって理不尽極まりないものでもありました。

演出家や、これから脚本を書こうとしている劇作家に、不明確な「基準」によって「評価」され、「吟味」される。

怖くて誰もアクションしないと思って自分が入っていったら、怒られたり酷評されたりする。

そして、入らなかった人がその難を免れる。

その結果、入った人は、「入らなければよかった」ということになる。

言葉を換えれば、それまでの私は、「がんばった人が損する」つらさを、即興演劇に対して持っていました。

(「本当の」エチュードがどのようなものなのかはわかりません)

 

インプロは、こうした点が大きく違いました。

 

インプロにおける演出家(ワークショップの場合はファシリテーター)は、

役者(参加者)を評価したり、「正しく」導くためにそこにいるのではない、

という感じを受けました。

 

 

また、インプロの演出家(ファシリテーター)や俳優(参加者)たちはとてもsupportiveで、

シーンやゲームのなかで困っていれば助けてくれました。

そういった意味でも、「がんばった人が損をする」という即興演劇に対するイメージは壊れていきました。

 

そして、うまくいかないことがあるときには、

なぜそうなるのか、ということが「理論的」に説明されました。

ゲームして楽しんで終わり、ではない深さをインプロに感じたのも続けるきっかけになりました。

 

以上、ざっくりですが言語化してみました。

 

余談ですが、

今、私は東京学芸大学で、演劇を学ぶ学生さんたちと質的研究法について学ぶ演習の授業を担当しています。

現在「インタビュー調査」について扱っており、私を実験台にインタビューして高齢者インプロ劇団「くるる即興劇団」に関するインタビュー記事を作成せよ、という課題に取り組んでもらっています。

その実験的インタビューが先日行われ、そのときにも改めてわかったことがあります。

それは、前述したように、インプロとの出会いは「教育と演劇の研究」というところでしたが、

実際インプロワークショップへの参加モチベーションはどちらかというと自分自身の演技の改善にあった、ということです。

修士課程に入ってからもインプロを続けますが、それは研究としてではなく、はたまた教育的実践活動としてでもなく、

インプロを研究対象として扱おうと思うようになったのは博士課程に入ってからです。

 

なぜ自分が、インプロを研究対象とせず、博士課程まで避けてきたのか。

この点については、また書こうと思います。

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