つづけることとひろめること

何か新たな活動をおこして、それをしばらく続けていくと、

あなたはこの活動をいつまで続けていかれるんですか、

とか、

あなたがいなくなったときこの活動は終わってしまうのではないですか、

とか、聞かれるようになることがあります。

 

 

あるいは、

この活動をどうやって社会に広めていくのですか、

この活動を社会に広めていくためにあなたは何をすべきですか、

とかも。

 

わたしはここ数か月間で、こうした質問を色々な方からいただきました。

それはとてもありがたいことで、ある程度活動自体に関心をもっていただけているからこそ、

こうした質問をいただけるのかなと感謝しております。

 

と同時に、こうした質問にであうと、とても複雑な気持ちにもなったりします。

 

とくに、

「あなたがいなくなったときこの活動は終わってしまうのではないですか」。

 

このことばを数か月前にある方からいただいたときから、

このことばといかにつきあっていくかについて、考えてきました。

いまも考え続けていてはっきり「こたえ」が出ているわけではないのですが、

現時点での自分の考えたことを記してみたいと思います。

 

このことばが示すのは、

活動の主導者がいなくなったとしても、参加者自身が活動を「主体的」に継続していけるようにするのが望ましいのではないか、

という考え方です。

わたしのかかわる活動は、生涯学習など地域における学習や活動に関するものがほとんどですが、

ここでいう主導者は、たとえば地域活動などの中で、その地域に対して新たな「しかけ」をおこなう「外部」の人を指します。

わたしのかかわる分野では、

 

そうした主導者の手を離れ、地域住民が自ら活動を運営していけるようになることを良しとする考え方があります。

もちろんこうした考え方は重要なことであるとわたし自身も考えていますが、

わたしたちが今おこなっている活動ははたしてこの考え方にあてはまるのだろうか、と考えることがあります。

 

まずわたし自身は、活動を、「主導者」と「参加者」にわけて考えていません。

もちろん、わたしが発起人になってはじめた活動の場合、わたしが「主導者」的な立場になることが少なくないし、それは事実ですが、

今の時点でわたしはわたし自身のことを「主導者」とは思っておらず、

その活動をつくる参加者という意識でかかわっています。

 

また、いわゆる地域住民ではない人というか、「外部」の人である者の手を離れた時点で、

地域住民による「真に主体的な活動」が達成されうるのだ、

という考えにもわたしは賛同していません。

 

「主体的」ということばはとてもやっかいなことばです。

 

わたしが自分を誇りに思うとか、そういうおこがましい意味ではなく、

わたしも含め、そこに参加したメンバーが今のメンバーだからこそ今の活動ができているんじゃないかと思うのです。

だから、わたしがもしその活動から抜けてしまったとしたら、その活動をそのまま続けることは困難になると思います。

それはわたしだけではなく、他のメンバーのだれかが抜けたとしても同じです。

 

いなくなる → 中止!、というかんたんなものでもありません。

現に活動から抜けた人もいます。

やはり、そうすると、その後の雰囲気がすこしかわります。

そのことがいいとかわるいとかではなく、

誰かがいなくなったとしたら、また新たな活動がそこから立ち上がるというだけのことではないかと思います。

 

少なくともわたしは、今おこなっているわたしたちの活動を、「続けるため」にやっているのではありません。

その瞬間その瞬間に向き合い、その瞬間をその場にいるメンバーとたのしむことくらいしかできません。

そしてその先にどんな「効果」があるかもわかりません。

わからず活動をおこなっていくことはときにくるしくなったりもしますが、

しかしわからない・曖昧だからこそそこにたのしさが生まれてくるのかな、と思ったりもします。

 

要は、

いいたいことは、

たとえ「主導者」的な立場であっても、その活動の参加者として思う存分たのしみたいし、

「主導者」がいなくなる前提で今の活動を今のメンバーとやりたくない、

ということです。

 

 

また、こうした「つづけること」に関するものに加えて、「ひろめること」に関する質問もいただくことがあります。

 

 

たとえば、柏でおこなっている高齢者インプロ劇団「くるる即興劇団」の活動を例に。

・柏ではできるかもしれないけど、他の地域でやったらどうなのか。同じことができるのか。

・あなたたちの活動は「元気な高齢者」しか対象にしていない。地域にはもっとひきこもりや孤立している高齢者がいるのだから、そうした人を対象にした活動じゃないと意味がない。インプロはそうした高齢者にも効果的なものなのか。

などというご指摘。

こうしたご指摘をいままで何度もいただいてきました。

 

わたしたちのおこなっている活動は、上にも述べたように、

かなりこまかな変化のもと、そこに参加するひとびとの関係のなかで生まれてくるものであるため、

「1つの(優れた)モデルをつくって、そのモデルを各地に普及させる」という構図にはなかなかあてはまりません。

ナマモノ感がものすごいです。

 

他の地域でも同じことができるのか。

それはわからないです。やってみないとわからないし、そこにわたし自身がかかわれるのかもわかりません。

少なくとも、いまのわたしは、今の活動をモデルにして、他の地域に持っていくことにあまり興味がありません。

他の地域で「同じ」活動をやらせていただく時間があるのなら、いまのメンバーとより良いものをつくる時間にあてたい、というのが今の気持ちです。

 

インプロはひきこもりや孤立する高齢者にも効果があるのか。

これもわからないです。

少なくとも言えることは、インプロは万能薬ではない、ということです。

そして、これはまたもう1つの論点かもしれませんが、

わたし自身は「ひきこもり」や「孤立」する高齢者の存在を「問題」と考えていません。

(ただし、ほんとうは「ひきこもり」したくない、「孤立」したくないのにそうならざるを得なくなっている、というのはわたしも問題だとは思います。)

地域(社会)に出て活動することが望ましい、それをしない人・できない人は問題だ、と簡単に考えたくありません。

 

なかなかまとまらず長くなってしまいました。

ここに書いたことは、博論を書く過程でまた変わっていくと思いますが、

しばらく経って、ああこういうことをこのとき考えていたのだなと、ふりかえるために残しておこうと思います。

 

/昼下がりのサンフランシスコにて。